7月と8月上旬まで博士も夏休みをとってしまいました。読者の皆さん、お元気でこの猛暑を乗り切っていらっしゃいますか。昔の人は8月といえばもう稲刈りのことを考えるくらい、秋の印象が強かったようです。現に、今年もあと4ヶ月と半分、あと4ヶ月もすれば町にクリスマスソングが流れると考えると、この猛暑と結びつかないかもしれませんが、この早い季節の移り変わりが、長い間に、日本人の死生観や哲学を生んできたのです。さて今回も千葉寺に伝わるお話をしましょう。

千葉寺(せんようじ)に伝わるお話。 その4.

 前回は、「戻り鐘」のお話をしました。不思議な話ですが、それはそれは有名な伝承であったようで、平田篤胤(ひらたあつたね)らと三大家といわれた国学者に高田與清(たかだともきよ・本名は小山田與清)という人がいて19世紀に入ったばかりの文化14年(1816年)下総の国・相馬郡(平将門ゾーン)を巡脚した折、道中記を執筆している(「相馬日記」)のですが、その中にも千葉寺の話は当然登場しています。

  この[相馬日記]は八月の十七日に江戸、神田川辺なる松かげの家を出てからの毎日の記録です。二十七日には印旛郡から酒々井(しすい)、そしてやっとのことで今の若葉区貝塚へ出ます。相当くたびれているにもかかわらず、来迎寺(今は稲毛区轟町に移転)や北斗山・妙見寺(今の千葉神社)、大日寺(今は稲毛区轟町へ移転)宗胤寺(今は中央区弁天町)など千葉氏ゆかりの寺を見たあと千葉氏が住んだといわれる猪鼻山に登ります、そしてかってここに池田の郷があり大きな池があったと記したあと、いよいよ千葉寺の記述が始まります。

  難しい文ではないので引用してみましょう。

「千葉寺またの名を海上山観音院といふ、さまざまの古き物,多かりと聞けど、……(中略)……そこに、もどり鐘とて弘長元年十二月廿ニ日と銘せしおほがね(大きな鐘)あり、中ごろ鋳改(いなお)さんとて、江戸の鋳工(いもじ)が許(もと)へつかはしけるに、おのづからなりて、千葉寺、千葉寺といふ音のしければ、おそろしがりてそのまま戻せしゆえ,戻鐘とはよべりとなん。」…これによると鐘の大きさはかなり大きかったように記しています。

「千葉笑い」のお話

さて高田與清の「相馬日記」は引き続き、この戻り鐘に続いて、「千葉笑い」というエピソードを書いています。それによると千葉寺では毎年の大晦日にこんな変わった行事をしていたというのです。引き続き引用してみましょう。

…「また千葉笑とて、としごとのしはす(師走)のつごもりの夜、里人この寺によりつどひ、各おもてをおほいして(みんな各人が覆面 して顔を隠し)地頭、村長などの邪曲事(よこしまごと)よりはじめ、人のよからぬ ふるまひどもをあげつらいののしり合うことありといへり」…

つまり大晦日に千葉寺村の人はみんな覆面をしてきて、寺に集まり、えらい人から、行ないの悪い人まで、それらの人たちの悪口を思いっきり言い合う、珍しい奇妙な行事をしていたと記録しています。これを岡本綺堂(1872〜1939)という劇作家・小説家が、「千葉笑い」という戯曲にしました。それによると猪鼻城の千葉の殿様がこの行事に加わり、いきなり自分の悪口を言われたもので、怒って覆面 の人間を正すと、実は、信頼していた家老でもあり自分の娘でもあり奥方であった、というものです。最初は怒っていた殿様も、自分の側近から言われたとあっては…反省したそうです。

さて次回はさらに面白いお話がありますよ。