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すっかり秋ですね。十五夜も過ぎ、お彼岸の季節。さて今回も千葉寺地区に伝わるお話をしましょう。 千葉寺(せんようじ)に伝わるお話。その5 前回は、「戻り鐘」と「千葉笑い」のお話をしました。
この「さんが」「ごたっぽ」を含む千葉寺の台地から海の方へ続く平地の農民は、田に引く水が少なく、日照りが続けば、死活問題にまでなりました。それを解決しようと立ち上がったのが、今から約400年前、この「さんが」の住人だった布施丹後守なのです。
布施丹後がどのような人だったかを知るには、千葉寺境内を散策して調査してみましょう。本堂を左に行くと、昭和54年5月に「丹後堰水利組合員」によって建てられた『布施丹後守 顕彰之碑』と明治29年11月に発起人岡田清五郎・願人布施丑太郎で建立された『布施丹後君 遺徳之碑』があり、後者の方に布施丹後の説明がわずかに出ています。 では、具体的にどのような大規模な事業を行ったのでしょうか。まずは水源をどこに求めるかですが、これはいかなる旱魃にも枯れることのない川に求めるしかありません。そうです、都川です。ここに水源を求めるほかありませんでした(今でも都川には水源橋という名の橋があります)。碑文には「水源は山辺郡土気(現・緑区土気)より発し 原野の細流相集りて 千葉郡千城村川戸を経て星久喜に至り 都村の分界と合し都川となれる」とあります。その川の水を引いて堰をつくろうという大事業を考えたというのです。 現在の矢作町の給水塔の下から、現末広、寒川、稲荷(五田保)等へ分流させる堰なので「矢作堰」とも呼ばれますが、この水路は、誰言うともなく偉人布施丹後に因み「丹後用水路」または『丹後堰』と呼ばれてきました。なんとか堰を作りたいと考えていた布施丹後はどのようなコースで水を引くか、長年、設計を考えたに違いありません。
その時の感動を「池水如大海 桶口流水漲拝」と記したことからもわかるように、勢い良く水が漲(みなぎり)出てゆくさまが想像されます。その結果 、結城(これが寒川地方の地名)、千葉寺、千葉、辺田、矢作、さらに余った水は今井、泉水(この泉水地名は今は消えて今井町になっている)の田を潤したと銘文に刻まれていますので、この流域の農民が受けた恩恵は計り知れません。 文末には「末世中絶時 誰人成倶御再興奉頼」とあり、何時の世にか将来もし用水が絶えてしまうような事があった場合でもどなたでもよいから再び用水路が使用出来るように復活してもらいたい、と記しています。
布施丹後の事業がいかに後世まで人々の暮らしに役立ったのかは、先ほどの二つの碑のうちの新しい方、すなわち昭和54年、今から26年前に建てられた碑が、なんと「丹後堰水利組合」というんですから、慶長から昭和まで、380年もその水利の恩恵を受けてきたことがよくわかります。 稲荷町や寒川には蘇我副都心の新しい波が押し寄せ、時代の移り変わりが感じられます。では次回もお楽しみに!
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