すっかり秋ですね。十五夜も過ぎ、お彼岸の季節。さて今回も千葉寺地区に伝わるお話をしましょう。

千葉寺(せんようじ)に伝わるお話。その5

 前回は、「戻り鐘」と「千葉笑い」のお話をしました。
さて今回は、お寺の境内にある布施丹後守(ふせたんごのかみ)の石碑のお話です。
ところで収穫の秋、食べ物がおいしい季節ですが、もう皆さんは今年の『新米』はいただきましたか?甘くてみずみずしい炊き立ての新米は、よく、オカズがいらないくらい美味しい、と言われます。しかし、田植えから刈入れまで、米を手にするまでの過程には、昔から農民の苦労は大変なものがあったのです。特に大変なのは、田に引く「水」をどうするか、ということです。自分達のつくった田のすぐ近くに、川や沼などの水利に恵まれない地区の農民にとって、田に「水」をどうやって引くかは大切な問題です。このことに生涯をかけて尽力した人こそ、布施丹後守という人なのです。

「布施丹後守と丹後堰」のお話

 お話は、今から約400年も前のことになります。今の中央区寒川は、「さむがわ」とは呼ばず「さんが」と最近まで土地の人は言っていました。
 
現に千葉寺境内にある江戸時代の手水石には「寒河」、またあとでお話に出てくる布施丹後守の宝塔にも「三川」と刻まれています。
  また現・寒川のお隣、稲荷町も「いなりちょう」とは言わずに「ごたっぽ」と呼ばれていました。この古い呼び名を今も小湊鉄道のバス停が残していて「五田保」と表記しています(さらに古くは『千学集』という古書に「御達報」とあります)。

 この「さんが」「ごたっぽ」を含む千葉寺の台地から海の方へ続く平地の農民は、田に引く水が少なく、日照りが続けば、死活問題にまでなりました。それを解決しようと立ち上がったのが、今から約400年前、この「さんが」の住人だった布施丹後守なのです。 布施丹後がどのような人だったかを知るには、千葉寺境内を散策して調査してみましょう。本堂を左に行くと、昭和54年5月に「丹後堰水利組合員」によって建てられた『布施丹後守 顕彰之碑』と明治29年11月に発起人岡田清五郎・願人布施丑太郎で建立された『布施丹後君 遺徳之碑』があり、後者の方に布施丹後の説明がわずかに出ています。
  それによると「同氏は素と寒川の人 其家系は往古当国の領主千葉公に出て 代々此の地の名族たり」とあって千葉氏の流れをくむ名高い家柄で、寒川の住人であったことがわかります。名門の家ですから、財産もあったでしょうが、この碑文には「其子雅楽助(その子、うたのすけ)と力を協せ 家財を擲(なげう)ち」とあるので財産も使い果 たして、しかも自分の子供の代にまで及んで、田に水を引く大事業を行ったことがわかります。

 では、具体的にどのような大規模な事業を行ったのでしょうか。まずは水源をどこに求めるかですが、これはいかなる旱魃にも枯れることのない川に求めるしかありません。そうです、都川です。ここに水源を求めるほかありませんでした(今でも都川には水源橋という名の橋があります)。碑文には「水源は山辺郡土気(現・緑区土気)より発し 原野の細流相集りて 千葉郡千城村川戸を経て星久喜に至り 都村の分界と合し都川となれる」とあります。その川の水を引いて堰をつくろうという大事業を考えたというのです。

 現在の矢作町の給水塔の下から、現末広、寒川、稲荷(五田保)等へ分流させる堰なので「矢作堰」とも呼ばれますが、この水路は、誰言うともなく偉人布施丹後に因み「丹後用水路」または『丹後堰』と呼ばれてきました。なんとか堰を作りたいと考えていた布施丹後はどのようなコースで水を引くか、長年、設計を考えたに違いありません。
  そしてその予算、工夫数、年数なども算出してから,幕府の許可を得たことでしょう。財産をはたいてまでやるというこの行為に狂人扱いした人々もいたに違いありません。

  前出のふたつの石碑の後ろには、布施丹後自らが寛永2年(1625)に建立した宝塔があります。その台座や塔身には銘文が刻まれていて「御奉行以御意 慶長十八年正月十四日始 人足七千以余力 五月九日大堤畢」とあり慶長十八年(1613)にやっと藩の許可をとりつけ工事に着工、七千人以上の労力をもって五月九日に大堤が完成した(畢は「ひつ」と読み、終わるとか終えるという時に古文書に良く出てきます)ことがわかります。

  その時の感動を「池水如大海 桶口流水漲拝」と記したことからもわかるように、勢い良く水が漲(みなぎり)出てゆくさまが想像されます。その結果 、結城(これが寒川地方の地名)、千葉寺、千葉、辺田、矢作、さらに余った水は今井、泉水(この泉水地名は今は消えて今井町になっている)の田を潤したと銘文に刻まれていますので、この流域の農民が受けた恩恵は計り知れません。

  文末には「末世中絶時 誰人成倶御再興奉頼」とあり、何時の世にか将来もし用水が絶えてしまうような事があった場合でもどなたでもよいから再び用水路が使用出来るように復活してもらいたい、と記しています。 布施丹後の事業がいかに後世まで人々の暮らしに役立ったのかは、先ほどの二つの碑のうちの新しい方、すなわち昭和54年、今から26年前に建てられた碑が、なんと「丹後堰水利組合」というんですから、慶長から昭和まで、380年もその水利の恩恵を受けてきたことがよくわかります。
  ちなみに水利組合員の人数を多い町順にあげてみますと、稲荷町(五田保)57名、千葉寺町51名、寒川町22名、港町4名、亥鼻、宮崎各1名。です。私的なことですが稲荷町の組合員の中に、私の祖父・大川煕の名が見つかりました。大川家の先祖代々もその恩恵にあずかったのです。 今は農業も絶え、水田も見当たりません。丹後堰の水利組合もありません。

 稲荷町や寒川には蘇我副都心の新しい波が押し寄せ、時代の移り変わりが感じられます。では次回もお楽しみに!