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千葉寺のはなし
大網街道を東へ向かう。十字路をのぼり坂にさしかかると、左側に十字架の塔をかかげるカトリック教会があり、さらに進むと右側に中村病院の建物がある。ここには精神を病んだ詩人、中原中也が昭和12年に入院し、「千葉寺雑記」などを書いた。
「6時希少。床を拭く、野外作業は最初先ず松葉掻きを始めたが、風がひどく集めた松葉がはじから吹散るので、貝殻を砕く。
日々訓練作業で心身の鍛練をしてをれど、もともと実生活人のための訓練なれば、まがりなりにも新人であるしょうせいには、えてしてひょっとこ踊りの材料となるばかり」
常識はずれの天才詩人も、ここではニワトリの餌の「貝殻をたたく」毎日がつづく。
「それ芸術といふものは、謂はば人が働く時にそれを眺め、人が休むときになってはじめて仕事のじまるもの、人が働く時にその働く真似をしていたのでは、とんだ喜劇にしかなりはせぬ
」(「千葉寺雑記」中原中也)
Y字路を大きく左に曲がるとすぐに、市内で最古の千葉寺の仁王門の前に出る。
◆その一 「桜の木を薪にしない」
そのむかし、しめじが原という所に千葉寺はあったという
永暦元年のこと、雷が落ちて炎上したとき、本尊の観世音が今の千葉寺の地の桜の大樹にとびうつったので、ここに寺を移した。
それで千葉寺のお開帳のおりには、花時でないのに桜の花が咲いたいう。だから、このあたりの家では、桜の木に薪にしないで大切にしたという。
◆その二 「千葉のはすの花」
和銅二年(七〇九)のことである。行基菩薩が池田の里を訪れたとき、池の中の一茎のはすに大きな二つの花が咲いて、金色に光り輝いていた。よく見ると、花弁の中に小さな観音像が入っていたので、丈六の十一面
観音像を刻んで、その眉間におさめたという。
この話を聞かれた聖武天皇は、その地のしめじが原にお堂を建てさせた。これが千葉寺の創始であるという。
なお、水戸黄門・徳川光圀の「甲寅紀行」(1674年)にも、この話は出ている。
また、境内の公孫樹(いちょう)も、行基の植えたものだと伝えられており、高さ30メートルのみごとな大樹である。幹から乳柱が垂れていて、これを煎じて飲むと母乳がよく出るという。
◆その三「もどり鐘」
むかし、千葉寺には弘長元年12月22日の銘の記された梵鐘があったが、改鋳のために江戸に出した。すると、ふしぎなことに、
「ちばでら、ちばでら・・・」
と悲しそうに鳴り出した。
そこで、改鋳にまた千葉寺に持ち帰った。
そういうわけで、町の人たちはこの鐘を「もどり鐘」と呼んで親しんだが、いつの間にか行方が知れなくなってしまったという。
◆その四「年賀記念切手の燈籠」
明治43年1月11日千葉町千葉寺1563番地の竹林を堀り崩していた畑野さんは、深さ二メートルほどの地下から六角形の釣燈籠を掘り出したのであった。梅と竹の文様のみごとな鋳造だったので、さっそく千葉警察署長に届でた。
それが、現在国立博物館に所蔵されている「 鋳銅梅竹文透釣燈籠」である。この燈籠の刻銘は「下総国千葉庄池田郷千葉寺/愛染堂之灯爐/大旦主牛尾兵部少輔/天文一九年庚戌七月一八日」とある。
少輔という位から見ると、戦国時代のこの地の高級役人(従五位下)ではないかと思われる。また、この鋳造の仕方によく似た物が栃木県佐野市にもう一つあるということから、佐野地方の工人の作ではないかと推定される。
この灯籠の出土した竹林は、現在千葉寺と大網街道をはさんだ東南方向であるが、おそらく、かつては寺の境内がこの竹林あたりまで広がっていたのではなかろうか。
千葉市から出土した文化財としてトップレベルの芸術品であり、1974年には記念切手としても用いられたのである。
千葉笑いのはなし
むかし、むかし、およそ、百年ぐらい前までは、こんな行事が、ほんとうにあったって。
そのころは、みぶんがやかましくってよ、「さむらい」がいちばんえらい。そのつぎが「百姓」、そのつぎが「だいく」、おしまいが「商人」ってきまってたが、それでも商人は金持ちだから、さむらいも頭が上がらないぐらいの、大金持ちもいたんだってよ。
それでまたな、そのさむらいたちも、「殿様」だの「家老」だの「足軽」だのって、もんな生まれたときから身分がきまってたから、下っぱのさむらいたちは、上の者にいじめられる分を、百姓だの町の者だのにいばりちらす。それで身分が下の百姓だの町の者だのは、いばるにもいばる相手がいないものだから、年がら年じゅう米つきばったみたいに、ペコペコ、ペコペコと、頭を下げどおしだったんだって。
そういうわけだから、百姓がさむらいの悪口をいったのがわかってみろ、それはもうぶんなぐられたり、けっとばされたり・・・ふくろだたきにされるか、腰にさした刀で、首をちょんぎれれるか、わかったもんじゃない。
ほら、千葉の町の東のはずれに「千葉寺」っていう寺があるのを知ってるか。千葉の町じゃいちばんふるい寺だよ。
ところでな、いつごろから始まったのか、わからないが、この寺の境内で、どれはそれはおもしろいことが、大みそかの夜になると見られたんだってよ。
大みそかの晩から元日の朝にかけては、どこの寺もおまいりの人で、大にぎやかなもんだ。千葉寺にも村人がたくさん集まるが、ここに集まる者たちはよ、みんな、おかめだの、ひょっとこだの、赤鬼だの、青鬼だののお面
をかぶってなだれがだれだかわからないようにして来るんだって。
文章/「千葉市の民話・伝説・歴史ばなし」 安藤 操著
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